俵屋宗達(がんさく)

オーガポンとスグリと玉田とマールが好きです

「家」を考える

 路地裏みたいに狭い通路の先に、自転車と靴と扉があった。どうしようもなく人の気配を感じて、色々考え始めた。

 

 この道を家路と感じることはないが、この景色にほっとする人が確かにいる。誰かの家の、誰かの店の軒下を、僕はいっつも歩いてるのだ。そこに建物がある以上、そこに必ず感情を持つ人がいる。

 

 乗り換えのために100mちょっとを歩く部分が帰り道にある。僕は単に帰り道と感じているが、周りには飲食店や小さい店がたくさんある。誰かが商店街だという道を、帰り道だと思っている。

 

 同じ電車に乗っている。それは百人居れども全く変わらないが、向いてる方は百人百様1つたりとも同じなことはないのかもしれない。

 それは環世界の話で、それは道徳理論の話で、それはテリトリーの話。

 

 結論も言いたいことも全然まとまらないけど、そういうものだと思う。

 思考に結論が出ることは珍しいが、この思考に結論を出した人は必ずいると思う。そういう思考の根性野郎を人は哲学者と呼ぶのかもしれない。

 

 なんとなく、「当たり前の事を言ってどうするの」と反論される様が浮かんだ。当たり前のことというのは至極真っ当だ。これにはどう反論するのが良いだろう。

 たぶん、考えを真に定着させるには、実感のフェーズが必要なのだと思う。勉強で言えば演習で、公式の有用性を頭に刷り込んでいくフェーズ。実感を経た者が初学者の実感を奪う言葉を放つのは、あまりよくないだろう、と思った。